LOGIN紙問屋の主人に案内され、景炎が部屋へ入ってきた。
以前より少し痩せたように見えた。
反乱の夜から、まともに休めていないのだろう。顔には疲労が残り、目の下には薄い影が落ちている。それでも衣は整えられ、立ち姿には皇太子としての威厳があった。
蘭珠は赤子を抱いたまま、静かに頭を下げた。
「殿下」
「……蘭珠」
久しぶりに名前を呼ばれた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
かつては、その声を待っていた。
自分だけを見てほしいと願い、名前を呼ばれるだけで嬉しかった時もある。
けれど今、その懐かしさが蘭珠の決意を揺らすことはなかった。
芳玉と周蘭は少し離れた場所へ下がっている。完全に二人きりではないが、会話が聞こえない程度には距離を取ってくれていた。
景炎は何か言おうとしたものの、すぐには口を開かなかった。
視線が、蘭珠の腕の中へ落ちる。
赤子は眠っている。<
紙問屋の主人に案内され、景炎が部屋へ入ってきた。以前より少し痩せたように見えた。反乱の夜から、まともに休めていないのだろう。顔には疲労が残り、目の下には薄い影が落ちている。それでも衣は整えられ、立ち姿には皇太子としての威厳があった。蘭珠は赤子を抱いたまま、静かに頭を下げた。「殿下」「……蘭珠」久しぶりに名前を呼ばれた。その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。かつては、その声を待っていた。自分だけを見てほしいと願い、名前を呼ばれるだけで嬉しかった時もある。けれど今、その懐かしさが蘭珠の決意を揺らすことはなかった。芳玉と周蘭は少し離れた場所へ下がっている。完全に二人きりではないが、会話が聞こえない程度には距離を取ってくれていた。景炎は何か言おうとしたものの、すぐには口を開かなかった。視線が、蘭珠の腕の中へ落ちる。赤子は眠っている。景炎の表情が変わった。ほんのわずかだったが、蘭珠には分かった。「……この子か」低い声だった。蘭珠は赤子を見下ろし、頷いた。「はい」景炎はその場から動かなかった。もっと近くへ来てもよいはずなのに、一定の距離を保ったまま赤子を見ている。まるで、近づくことさえ許されるのか分からないようだった。蘭珠はその姿に、少し胸が痛んだ。この子が景炎の血を引いていることは変わらない。どれほど事情があったとしても、その事実だけは消せない。「男の子だと聞いた」「はい」「早く生まれたとも」「一月ほど早かったそうです。ですが、侍医からは順調だと言われております」「そうか」景炎は小さく息を吐いた。安心したようにも見えた。しばらくの間、二人とも何も言わなかった。
紙問屋の屋敷へ宮中から使いが来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。蘭珠はちょうど赤子へ乳を与え終え、周蘭に抱いてもらったところだった。産後の身体はまだ万全ではないものの、少しずつ起きていられる時間も長くなっている。足の傷も塞がり始め、侍医からは、もうしばらくすれば短い距離なら歩いてもよいと言われていた。芳玉は机に向かい、何やら書きつけている。「また書いているんですか」蘭珠が尋ねると、芳玉は慌てて紙を伏せた。「まだ取材の整理です」「見せてください」「完成したら」「それでは何を書かれているのか分からないではありませんか」「だからいいんです」芳玉が笑うと、そのやり取りを聞いていた周蘭も小さく笑った。こんな穏やかな午後が戻ってくるとは、少し前まで想像もできなかった。王都では反乱が起き、火の手が上がり、自分も死にかけた。それでも今は、赤子の寝息を聞きながら誰かと笑うことができている。だが、部屋の外から近づいてきた足音が、その空気を変えた。「蘭珠様」紙問屋の主人の声だった。「宮城より使者がお見えです」蘭珠の表情が引き締まる。「分かりました。お通ししてください」しばらくして、一人の侍従が戸口まで案内されてきた。蘭珠は衣を整え、軽く頭を下げる。「何かございましたか」「皇太子殿下より、お言葉を預かっております」景炎。その名を聞いただけで、胸の奥に小さな緊張が走った。以前ならもっと大きく心が揺れただろうが、今は違う。それでも、何も感じないわけではなかった。「伺います」侍従は深く頭を下げた。「殿下は、蘭珠様が王都を発たれる前に、一度お会いしたいと仰せです」蘭珠は言葉を失った。芳玉も少し離れたところで動きを止め、周蘭は赤子を抱いたまま静かに蘭珠を見ていた。「……私に?」「はい」蘭珠は無意識に指先を握った。景炎が自分に会いたいと思うこと自体は、理解できないことではない。けれど、侍従の言葉には続きがあった。「ただし、殿下は蘭珠様を宮城へお呼びになるおつもりではございません」蘭珠は顔を上げた。「どういうことですか」「蘭珠様がお会いになってもよいと仰るならば、殿下ご自身がこちらへお越しになるとのことです」蘭珠は思わず黙り込んだ。景炎がここへ来る。自分を呼びつけるのではなく、しかも会うかどうかを先に尋ねている。以前の景炎
皇帝の寝所には、薬草の匂いが満ちていた。厚い帳の向こうで灯が揺れ、部屋の中には低い咳の音だけが響いている。景炎が入ると、皇帝は枕へ身体を預けたまま、ゆっくりと目を開いた。以前より、ずっと痩せていた。頬は落ち、声にも力がない。それでも、息子を見る目だけはまだ鋭かった。「……来たか」「父上」景炎は寝台のそばへ進み、膝をついた。皇帝はしばらく何も言わず、景炎の顔を見つめていた。「王都は」「落ち着きつつあります。火災もほぼ鎮火し、内応者の捕縛も進んでおります」「景衡は」「捕らえました」皇帝の目がわずかに細くなる。「生きているのか」「はい。勝手には処断せず、王都へ護送させます。陸曜や蒼隼国との繋がりも含め、まず反乱の全容を明らかにするつもりです」皇帝は短く息を吐いた。安堵したのか、失望したのか、景炎には分からなかった。「……あれは昔から、弱い子だった」ぽつりと皇帝が言う。景炎は黙って聞いた。「弱い者ほど、強い言葉に縋る。景衡は自分で皇位を欲したというより、欲しいと思い込まされたのかもしれぬ」「それでも、反乱を起こした責任は消えません」「分かっている」皇帝は目を閉じた。「だから裁かねばならぬ。弟であってもな」その言葉に、景炎は小さく頭を下げた。「はい」しばらく沈黙が続いた。やがて皇帝がもう一度目を開く。「陸曜を討ったのは、楚凌だそうだな」「はい」「景衡を捕らえたのも」「楚凌です」「門番へ落とした男が、国を救ったか」その言葉に、景炎の胸がわずかに痛んだ。「……私の判断が誤っておりました」「雪瓔のことか」
蘭珠の返事が届いたのは、その日の夕刻だった。正殿にはまだ多くの文書が積み上げられていたが、反乱直後の切迫した慌ただしさは少しずつ薄れつつあった。各地から届く報告も、火急のものより後始末に関するものが増え、兵の再配置や焼けた家々への支援、捕らえた内応者の取り調べなど、国を元の形へ戻すための仕事へ変わり始めている。景炎は、景衡が統治していた国境の土地について書かれた報告書へ目を通していた。楚凌はまだ傷が癒えておらず、医師から安静を命じられている。それでも寝台の上から必要な指示を出し、城兵の配置を整え、景衡や陸曜と繋がっていた役人の洗い出しを始めているという。あの男らしい。景炎はそう思いながら書状を机へ置いた。「殿下」控えていた文官が声をかける。「蘭珠様から、お返事が届いております」景炎の手が止まった。ほんの一瞬だったが、その場にいた者の何人かは気づいたかもしれない。「……申せ」できるだけ平静な声で答える。文官は深く頭を下げた。「蘭珠様は、楚凌将軍のもとへ向かわれるとのことです」景炎は何も言わなかった。「ただし、すぐにではございません。産後のお身体が戻り、お子様が旅に耐えられるようになったのち、国境へ向かわれると」胸の奥へ、重いものが沈んだ。王都を離れる。蘭珠が。子を連れて。その可能性を考えていなかったわけではない。それでも景炎は、心のどこかで別の答えを期待していた。楚凌は国境へ残る。すぐには王都へ帰ってこない。蘭珠は産後で、生まれた子もまだ小さい。王都には宮中の侍医がいて、紙問屋には景炎から援助を出している。近衛も置き、母子に必要なものはすべて整えさせていた。だから。蘭珠が王都へ残る道を選ぶこともあるのではないか。そう思っていた。あるいは、そう願っていた。
蘭珠は、楚凌から届いた手紙を何度目か分からないほど読み返していた。――あなたと、我が子に会いたい。その一文へ目が止まるたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。赤子はすぐそばで眠っていた。早く生まれたため身体はまだ小さいが、侍医からは順調に育っていると言われている。蘭珠自身も少しずつ起き上がれるようになり、足の傷も前ほど強く痛むことはなくなっていた。ただ、門番の家へ戻ることはもうできない。火事で焼け落ちてしまったからだ。周蘭も芳玉も、しばらくここにいればいいと言ってくれる。紙問屋には景炎から十分な援助も届いていて、産後の蘭珠と赤子が困ることは何もなかった。それでも、自分の家ではないという思いは残っていた。これからどこへ行くのか。その問いは、日を追うごとに現実味を増している。「また読んでいらっしゃるんですか」芳玉の声に、蘭珠は顔を上げた。「そんなに何度も読んだら、紙が擦り切れてしまいますよ」「そんなには読んでいません」「昨日だけでも三度は見ました」「……見ていたんですか?」「取材ですから」芳玉は悪びれもせず笑った。少し離れたところでは、周蘭が洗った布を畳んでいる。「芳玉さん、蘭珠様をからかってはいけませんよ」「からかってません。こういうところが大事なんです。英雄の妻が、夫から届いた手紙を何度も読み返す――」「書かないでください」蘭珠が思わず言うと、芳玉は楽しそうに笑った。「まだ何も書いてませんよ」「まだ、ですか……」三人の間に笑いが広がる。こんな穏やかな時間が戻ってくるとは、少し前まで想像もできなかった。その時だった。部屋の外から、紙問屋の主人の声がした。「蘭珠様。宮城より正式な使者がお見えです」芳玉の表情が変わる。蘭珠も、自
反乱が鎮まってから、王都には少しずつ日常が戻り始めていた。焼け落ちた家々の跡には片づけをする人々の姿があり、閉ざされていた店も一軒、また一軒と戸を開け始めている。通りには久しぶりに商人たちの声が戻りつつあったが、それでもすべてが元どおりになったわけではなく、火災の跡は残り、家族や家を失った者たちの悲しみもまだ癒えてはいなかった。宮城の中でも、反乱の後始末は続いていた。正殿の中央には、景衡の件に関する報告書が積み上げられている。景炎はその一つに目を通したあと、ゆっくりと机へ置いた。「景衡の護送は」「すでに手配しております」年嵩の重臣が答える。「ただ、王都へ戻したのち、どのように処断なさるかは……」そこで言葉を濁した。景衡は皇族だ。ただの反逆者ではないとはいえ、皇太子である兄へ反旗を翻し、蒼隼国と通じ、王都へ兵を差し向けた。その罪が軽いはずもない。景炎は少しの間、黙って報告書を見つめた。父帝は今も病に伏している。今回の反乱についても、細かな報告を聞き、すぐに裁可を下せるような状態ではない。本来なら、皇族である景衡の処遇には皇帝の判断が必要になる。だが今は、景炎が国を動かさなければならなかった。「景衡は王都へ戻せ」「はっ」「処断は急がぬ。まず反乱への関与をすべて洗え。陸曜とのやり取り、蒼隼国との連絡、王都内部の内応者。誰がどこまで関わっていたのか、先に明らかにする」「承知いたしました」景炎は一度息を吐き、続けた。「それから、景衡が統治していた土地の兵と民へは、今回の件で一律に罪を問うな。王爺を城へ入れず、瑞華へ従う意思を示した者たちは反乱軍ではない。景衡個人の罪と、土地の者たちの罪を混同するな」重臣たちは揃って頭を下げた。これ以上、国を割るわけにはいかない。弟への怒りがないわけではなかった。むしろ考えれば考えるほど腹立たしかった。かつて自分と楚凌が血を流して蒼隼国から奪い取
夜更けの回廊は冷え切っていた。蘭珠はその中を、ひとり震えながら歩いていた。産むべき子を抱えた腹を、そっと両手で包み込む。景炎が出陣してから、宮中は目に見えて変わった。侍女たちは蘭珠を避けるようになり、妃仲間も距離を置く。理由はわからない。ただ——景炎が書き送ってきた文が、ぱたりと途絶えた。「何かあったの……?」胸の奥で不安が揺れる。あれほど深く求められ、愛され、「必ず戻る」と誓いさえ交わしたのに。蘭珠は壁に手を添え、深く吸い込んだ。冷たい空気が肺を刺し、胸が締め付けられる。そんな彼女のもとへ、小走りの影が近づく。「蘭珠様、戻られましたか……!」若い侍女・梅香が、顔
門番宿舎で暮らし始めて、一ヶ月が経った。華やかな宮中は、もう遠い。 朱塗りの柱も、香の煙も、絹の衣擦れもない。 ここにあるのは、土と木の匂いと、夕方になると肌にまとわりつく湿気だけだ。蘭珠は、まだ慣れずにいた。慣れないのは、家の狭さでも、貧しさでもない。 慣れないのは、自分の立ち位置だった。夫と呼ばれる男が隣にいる。 けれど楚凌は、蘭珠を「妻」として扱うより、「主の妻」として扱っている。 声も、視線も、距離も、慎重に保たれていた。妊娠初期のつわりは思った以上に重い。 朝、粥の湯気を嗅いだだけで胸が波立つ日もある。そんな日々を支えているのが、通いの下働きだった。名は周
「……本当に、行ってしまわれるのですか」障子越しに差し込む朝の光が、白い帳を淡く透かしていた。 寝台の上で身を起こした蘭珠は、自分の声が震えているのを自覚する。部屋の中央で甲冑を締め直していた景炎が、手を止めて振り向いた。 漆黒の髪を高く結い上げ、その上から金の冠を載せている。いつもより厳しい横顔。それでも、蘭珠を見ると、ふっと表情が和らいだ。「行かねばならぬ」短く告げられた言葉は冷たく聞こえて、けれど、その瞳には迷いが滲んでいた。蘭珠は掛け布を握りしめたまま、そっとお腹に手を添える。 まだ膨らみと呼ぶにはほど遠い。だが、医官は確かに言った。――ご懐妊、おめでとうござい
婚礼から三ヶ月。蘭珠(らんじゅ)はようやく、自分は幸せになれるのだと信じかけていた。朝、目を覚ますと、すぐそばに景炎(けいえん)の横顔がある。「……あ」思わず小さく声が漏れた。金の刺繍を施した寝衣の襟元から、すっと伸びた喉と整った顎のラインがのぞく。(本当に、皇太子様が私の夫なんだ……)いまだに、ときどき信じられなくなる。瑞華一の名家・花家の次女として生まれた蘭珠は、姉より目立たぬようにと育てられてきた。派手ではない。けれど読み書きと琴を好み、物静かで、よく人を見ている――そんな娘。その彼女が、今は皇太子・景炎の枕元で、腕の中に閉じ込められている。「……起きたのか、蘭珠







